24 June 2013

スズ鉱産業

マレーシアのスズ鉱産業は、1848年、ペラのラルートでのスズ鉱山開発が始まりです。イポーのキンタ渓谷からクアラ・ルンプールのクラン渓谷にかけての一帯はマラヤン・ティン・ベルト(Malayan Tin Belt)と呼ばれ、世界最大のスズ生産地として名を馳せました。

マラヤン・ティン・ベルトは1850年代に開発が始まり、キンタ渓谷はその中で最大の産地でした。1920年代から1930年代に鉱山町として急速に発展したイポーは、1970年代後半のスズ鉱の閉鎖まで主要なスズ産出地でした。スズ鉱産業の発展は鉱石の輸送目的で鉄道や道路網の開発を促しました。

また、産業の発展にともない数万人規模で中国人労働者が相次いで入植し、イポーの街はマレーシア第3の都市にまで発展しました。現在、イポー住民は中華系70%、マレー系17%、インド系12.5%、その他0.5%で中華系が圧倒的に多いのはこの為と考えられます。イポーはスズ鉱開発による成功と財産を示す「錫城」とか「大富豪の都市」と呼ばれました。

スズは他の各種金属とともに花崗岩石中に含まれていますが、花崗岩は比較的風化に弱い岩石で、地表の露頭は長い年月の間にボロボロに崩れ、雨水に流されて下流の河川沿いに堆積します。そのため沖積層中にスズが大量に、かつ高純度で含まれていることがあります。キンタ渓谷にスズの鉱床ができたのはこのような理由と考えられます。

下のGoogle写真はキンタ渓谷のスズ産出地でした。鉱山の中心の町カンパー(中国語:金宝)は1887年に設立され、キンタ渓谷内のスズの埋蔵量の豊富なエリアに位置しています。カンパーはスズ鉱業の最盛期に急成長しました。カンパー郊外には多くのスズ鉱山がありましたが、それらのほとんどは、19世紀後半に設立されたものです。

スズ鉱閉鎖後、露天掘りされた穴には水が溜まり、今では無数の池となって点在しています。現在では、イポーの中心街は北に移動し、この地は静かな町となりましたが、数十年前はスズの採掘ラッシュで人も何もかもが、活気に満ち溢れていたと思われます。



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キンタ渓谷でスズの露天掘りに使われていた工具がペラ州立博物館の屋外に展示されています。博物館内の写真を見ると、掘った穴の斜面に何本ものホースで大量の水を噴き掛けて土砂を崩していたり、枠に土砂を入れて水を流し、何人かがその底に残ったスズを鍬のようなもので採取しているようでした。

一般的なスズ採取方法(参考)

スズの採集は砂金のそれに似ていて、浅いお椀や板子で河底の砂をすくい、流水中で静かに揺らして軽い砂を流し去ると、比重の大きなスズが残ります。マレー人たちは何世紀にも渡って、このような原始的な方法でスズを採集していたようです。

18世紀から19世紀にかけて、スズ鉱山は華人の資本と労働者の手で開発されました。華人たちは、マレー人を使ってジャングルの表土を取り除き、剥き出しの大地を露天掘りしました。簡単な土木工事で河川から水を引いて、浅い川床で転車と呼ばれる水車を回し、巧みに土を洗い流してスズを選鉱しました。人海戦術とはいえ、彼らのやり方は選鉱でも精鉱でも、旧来のマレー人のそれよりずっと大掛かりで効率が上がりました。









マレーシアの有名なお土産であるロイヤルセランゴール社のピューターはスズと他の金属の合金で造られています。ロイヤルセランゴール社は洗練されたデザインと品質のハンドメイド製品 ピューターを世界中に送り出しています。熟練工の手で、一品一品丹念に作り上げられたピューターは、芸術品ともいえる美しさとハンドクラフトならではの優しさにあふれています。飽きのこない洗練されたヨーロッパ調のデザインは、北欧のデザイナーによるものです。








マレーシアは1980年代にNIESの一員として家電生産を中心とする工業化に成功し、この産業構造の変化は、1次産品であるスズの生産を急激に落ち込ませ、1980年に61,400トンと世界一を誇った生産量は、1997年には5,100トン(世界第8位)にまで減少しました。

イポーの成長はスズ鉱閉鎖で停滞し、クアラルンプールなどの都市圏やシンガポールへ多くの若い人材が流出しました。イポーは「死んだ」都市として知られるようになり、定年後に住むのに適した場所とされましたが、近年、イポーを再開発するために様々な努力が図られています。

スズ採掘地を再開発し、昔ながらの豊かな自然を取り戻し、更にこれを有効活用していこうという計画が進められています。スズ鉱跡の池を利用した商業施設、行楽地、魚釣り場など、郊外の新しい開発により、イポーは再生され始めました。

Waterfront City というプロジェクトが進行中の池